「どうせ自分なんて」「また失敗してしまった、やっぱりダメな人間だ」――ふとした瞬間に、そんな言葉が心の中で繰り返される。人と比べては落ち込み、褒められても素直に受け取れず、自分にだけは厳しい採点をしてしまう。そんな苦しさを抱えて、このページにたどり着かれたのではないでしょうか。
自己肯定感が低いというのは、目に見える傷ではありません。だからこそ誰にも打ち明けられず、「こんなことで悩む自分が情けない」と、悩んでいること自体を責めてしまう。その二重の苦しさを、当方はまず静かに受け止めたいと思います。あなたがここまで自分と向き合ってこられたこと、それ自体が、決して弱さではありません。
この記事では、自己肯定感が低いとはどういう状態なのか、なぜ人は自分を責めてしまうのかをやさしく解きほぐし、仏教の教えの中にある「自分への慈しみ」の考え方や、今日から始められる小さな心の整え方をお伝えします。一人で抱え込まなくてよいのだ、という気持ちで読み進めていただければ幸いです。
自己肯定感が低いとは、どういう状態なのか
自己肯定感とは、ひとことで言えば「ありのままの自分を、これでよいと受け止められる感覚」のことです。うまくいったときだけ自分を認めるのではなく、失敗しても、人より劣っていても、「それでも自分には価値がある」と思える心の土台のようなものです。
自己肯定感が低い状態というのは、この土台がぐらついている状態だといえます。何かができたときにだけ、かろうじて自分を許せる。裏を返せば、条件を満たせない自分には価値がないと感じてしまう。だから常に何かに追われるように頑張り続け、それでも満たされず、休むことにさえ罪悪感を覚えてしまうのです。
具体的には、人の言葉を否定的に受け取りやすい、断ることができない、褒められると居心地が悪い、失敗をいつまでも引きずる、自分の意見を言うのが怖い、といった形であらわれます。心当たりが多いほど苦しい毎日でしょう。けれど、ここで知っておいていただきたいのは、それはあなたの人間性が劣っているからではなく、あくまで「心のくせ」であるということです。くせであれば、少しずつほどいていくことができます。
なぜ、人は自分を責めてしまうのか
自分を責める心には、たいてい理由があります。生まれつき「ダメな性格」の人などいません。多くの場合、そこには積み重なってきた背景があるのです。
ひとつは、比較のくせです。人は無意識のうちに他人と自分を比べます。とくに今は、他人の輝いて見える部分ばかりが目に飛び込んでくる時代です。相手の見せている一番良い場面と、自分の一番情けない部分とを並べて採点していれば、勝てるはずがありません。比べる土俵そのものが、はじめから公平ではないのです。
もうひとつは、完璧主義です。「ちゃんとやらなければ」「迷惑をかけてはいけない」という思いが強い人ほど、できなかった一点に目が向き、できた九十九点が見えなくなります。真面目で責任感の強い人ほど、自分に厳しい採点をしてしまうのです。
そして多くの場合、その根には過去の経験があります。幼いころに認めてもらえなかった、否定的な言葉を浴び続けた、努力しても報われなかった。そうした記憶は、大人になっても「自分はそういう存在なのだ」という思い込みとして心に残り続けます。つまり自分を責める声は、あなた自身の本当の声ではなく、いつか誰かから受け取ってしまった言葉の名残であることが少なくないのです。まずは「これは思い込みかもしれない」と気づくこと。そこが、心をほどく最初の一歩になります。

仏教が教える「自分を慈しむ」ということ
自分を責めてしまう心に、仏教の智慧はやさしい光を当ててくれます。当方が行者としてお伝えしたいのは、仏の教えは決して「もっと頑張れ」と鞭打つものではなく、むしろ「そのままのあなたを受け止めなさい」と説くものだということです。
縁起 ―― 今のあなたは、あなただけのせいで作られたのではない
仏教の根本に「縁起(えんぎ)」という教えがあります。これは、すべての物事は単独で成り立っているのではなく、無数の原因や条件(縁)が寄り集まって、今の姿になっている、という真理です。難しく聞こえるかもしれませんが、あなたの心にも同じことがいえます。
今のあなたの自信のなさは、あなた一人の責任で作られたものではありません。育った環境、出会った人、かけられた言葉、たまたま巡り合わせた状況――数えきれない縁が重なって、今の心のくせが生まれています。だとすれば、「自分はダメな人間だ」と自分だけを断罪するのは、実は正確な見方ではないのです。縁が変われば、心もまた変わっていける。縁起の教えは、そう静かに教えてくれます。
諸法無我 ―― 「ダメな自分」という固定した実体はない
縁起と表裏一体の教えに「諸法無我(しょほうむが)」があります。あらゆるものには固定した実体がなく、常に移り変わっている、という教えです。
「自分はこういう人間だ」という決めつけも、実は固定した真実ではありません。昨日うまくいかなかったからといって、それがあなたの変わらぬ本質になるわけではないのです。心は移ろい、人は変わっていける。「もう自分は変われない」という思い込みこそ、無我の教えがそっと解いてくれるものです。
自他不二と無財の七施 ―― 人にかける優しさを、自分にも
仏教には「自他不二(じたふに)」という言葉があります。自分と他人は、本来切り離せないひとつのものだという教えで、慈悲の心の土台とされます。人の痛みを我がことのように感じる――その優しさを、あなたはきっと持っているはずです。ならば、その同じ優しさを、自分自身にも向けてよいのです。
『雑宝蔵経(ぞうほうぞうきょう)』というお経に、お金や物がなくても行える七つの施し「無財の七施(むざいのしちせ)」が説かれています。温かいまなざしを向ける眼施(げんせ)、柔らかな笑顔で接する和顔悦色施(わげんえっしょくせ)、優しい言葉をかける言辞施(ごんじせ)などがそれです。ふつうは他人に向ける施しですが、当方はこれを、まず自分自身に向けてみることをおすすめしています。人に向けるような温かいまなざしと言葉を、鏡の中の自分にも贈ってみる。それは決して甘えではなく、立派な仏道の実践なのです。

今日からできる、心を整える小さな習慣
考え方が少しほどけてきたら、次は小さな行動です。自己肯定感は、大きな成功で一気に取り戻すものではなく、ささやかな積み重ねで少しずつ育っていくものです。焦らず、できそうなものをひとつだけ選んでみてください。
第一に、自分にかける言葉を変えることです。失敗したとき「またダメだった」と責める代わりに、「よくここまでやった」「今日はここまでで十分」と、親しい友人にかけるような言葉を自分にも向けてみます。最初はぎこちなくて構いません。言葉は心を少しずつ耕していきます。
第二に、一日の終わりに「できたこと」を三つ数えることです。どんなに小さくても構いません。朝きちんと起きた、誰かに挨拶をした、ご飯を作った――当たり前に思えることこそ、本当は尊い営みです。できなかったことばかり数えるくせを、できたことを数えるくせへと置き換えていきます。
第三に、比べる相手を「昨日の自分」にすることです。他人と比べれば際限がありませんが、昨日の自分となら、ほんの小さな一歩でも確かな前進として見えてきます。
そして第四に、静かに手を合わせる時間を持つことです。神仏の前で、あるいは朝の光の中で、そっと合掌し、深く息を整える。ほんの一分でも、自分を責める思考の渦から離れ、心を鎮めるひとときになります。祈りは、遠い誰かのためだけのものではなく、まず自分自身を労わるための時間でもあるのです。

祈りは、ありのままの自分を受け止める支えになる
昔から人は、自分の力ではどうにもならない心の重さを、祈りに託してきました。自分を責める声が止まらないとき、手を合わせるという行いは、張りつめた心をゆるめ、「一人で抱えなくてよい」と思い出させてくれます。
当方がお仕えする聖天様(大聖歓喜天)は、現世のあらゆる願いに応えてくださる、力強く慈悲深い天尊です。商売や金運、良縁や夫婦和合だけでなく、人知れず抱える心の苦しみもまた、聖天様がまなざしを注いでくださる願いのひとつです。自分を認められず苦しむ心が、少しずつほどけて前を向いていけますように――そうした祈りを、聖天様は温かく受け止めてくださる神様です。これは当方が勝手に申しているのではなく、古くから多くの行者や信仰者が現に体験し、書物にも記されてきた、確かなことです。
当方では、皆様の願いを聖天様にお届けする御祈祷を行っております。祈りは、あなたを別の誰かに作り変えるためのものではありません。ありのままのあなたが、そのままで前を向いていくための、静かな心の支えになるものです。
まとめ ―― あなたは、そのままで大丈夫
自己肯定感が低いと感じることは、あなたの価値が低いということでは決してありません。それは長い時間をかけて身についた心のくせであり、縁が変われば、少しずつほどいていけるものです。人にかける優しさを、どうか自分にも。今日できたことを、どうか自分でねぎらってください。
それでも、自分を責める声があまりに強くて苦しいとき、どう向き合えばよいか迷うときは、一人で抱え込まないでください。まずはお気軽にご相談ください。お話をうかがったうえで、必要であれば御祈祷や鑑定という形で、あなたが心穏やかに前を向いていけるようお力になれることもあります。あなたが「まず誰かに話してみよう」と思えたなら、それはもう、心がほどけはじめた確かな一歩です。
合掌

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